桃李の道     萩原朔太郎

on-saturdays

2010年03月03日 12:00






聖人よ あなたの眞理をきかせてくれ。

杏の花のどんよりとした季節のころに

ああ私は家を出で なにの學問を學んできたか

むなしく青春はうしなはれて

戀も 名譽も 空想も みんな泥柳の牆(かき)に涸れてしまつた。

聖人よ

日は田舍の野路にまだ高く

村村の娘が唱ふ機歌(はたうた)の聲も遠くきこえる。

聖人よ どうして道を語らないか?

あなたは默し さうして桃や李やの咲いてる夢幻の郷(さと)で

ことばの解き得ぬ認識の玄義を追ふか。

ああ この道徳の人を知らない

晝頃になつて村に行き

あなたは農家の庖廚に坐るでせう。

さびしい路上の聖人よ

わたしは別れ もはや遠くあなたの沓音(くつおと)を聽かないだらう

悲しみのしのびがたい時でさへも

ああ 師よ! 私はまだ死なないでせう。

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