「盲目の秋」より 中原中也

on-saturdays

2009年10月17日 12:00






  
 
 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。
   
   
 その間、小さな紅の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

 
 もう永遠に帰らないことを思つて
  酷白な嘆息するのも幾たびであらう……

 
 私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。

                                        
 それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛へ、
     去りゆく女が最後にくれる笑ひのやうに、
                        

 厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく
   異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

 
     あゝ、胸に残る……

 
 風が立ち、浪が騒ぎ、
   無限の前に腕を振る。

**
  

 
 これがどうならうと、あれがどうならうと、
 そんなことはどうでもいいのだ。

 
 これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
 そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

 
 人には自恃があればよい!
 
 その余はすべてなるまゝだ……

 
 自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
 ただそれだけが人の行ひを罪としない。

               
 平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、
 朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!

***
 
 ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
 そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

**


 
 せめて死の時には、
 あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。
   その時は白粧をつけてゐてはいや、
   その時は白粧をつけてゐてはいや。

 
 ただ静かにその胸を披いて、
 私の眼に輻射してゐて下さい。
   何にも考へてくれてはいや、
   たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

 
 ただはららかにはららかに涙を含み、
 あたたかく息づいてゐて下さい。
 ――もしも涙がながれてきたら、

 
 いきなり私の上にうつ俯して、
 それで私を殺してしまつてもいい。                       
 すれば私は心地よく、うねうねの暝土の径を昇りゆく。

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